「呑む人」たちが、たくさんの「好き」を語る。
~ 富士ゼロックス鹿児島株式会社 前社長 嶋田光邦さん ~
毎日の晩酌は本格焼酎という人たちがいる。選ぶ理由はさまざまだ。
甘い香りに惹かれる人、お湯割り、水割りと気分で楽しみたい人、糖分ゼロで健康に気を使う人。
焼酎を「呑む人」たちが、たくさんの「好き」を語る。
薩摩の地は、ほんとワクワクするんだよ。
実家は東京都大田区の商店街で酒屋をしていたんだ。幼少期から酒の臭いをかいで育ったもんだから、酒との縁は深いね。鹿児島に赴任したのは、運命みたいなもんだよ。だって、たくさんの焼酎に囲まれて生活してるんだもん。今振り返ると、鹿児島という地が、僕のことを呼んでくれたんじゃないかと思うんだ。
薩摩の地は、ほんとワクワクするんだよ。いろんな銘柄の焼酎がずらりと並んだ店があって、試飲もさせてもらえる。何杯飲んでもいいからね(笑)。それが幸せなんだ。
うまい焼酎ってさ、スッと体の中に入ってくる
うまい焼酎ってさ、スッと体の中に入ってきて、フッと鼻に香りが抜けていく。それが「三岳」なんだ。同じ三岳酒造さんが造っている「愛子」もお気に入り。最近では「赤猿」(小正醸造)、「さつま赤五代」(山元酒造)も、はまっているな。本坊酒造さんが出している「あらわざ桜島」もうまかったなぁ。濱田酒造さんの「海童」、薩摩酒造さんの「黒白波」もよく飲むよ。焼酎ばっかりの毎日だなぁ。
東京で芋焼酎は珍しかった。
ほんと、酒とは切っても切れない人生なんだ。今から50年ぐらい前は、日本の高度成長期。実家近くでは羽田空港周辺の埋め立て工事真っ盛りでね。全国から作業員がたくさん押し寄せていた。うちの酒屋には、角打ちがあってね。仕事を終えた作業員が店の外にあふれるほどやって来た。商店街は活気にあふれていた。映画「三丁目の夕日」、そのままの世界だよ。
小学生のころから、自分も酒を出すのを手伝ってたんだよね。当時、焼酎と言えば甲類。梅干しを潰して、酒に入れたりしてた。店で唯一あった本格焼酎(乙類)は、さつま白波(薩摩酒造)。当時、東京で芋焼酎は珍しかった。小学生ながら、あの香りは強烈でね。芋、芋って感じでね。今でこそ、芋焼酎ばかり飲んでいるけど、昔の芋臭さいやつは、もうないよね。
焼酎は切っても切れない「友」
いつから焼酎好きになったのかって?実は会社に入ってからなんだ。名古屋に赴任した時、先輩と同期が焼酎好きでさ。歓迎会で行った店で、麦焼酎の「吉四六」(二階堂酒造)に出会ったんだ。うまいなぁ、と思ってね。それからだね、お店でも家でも、焼酎ばかり飲むようになったのは。胡麻焼酎の「紅乙女」(紅乙女酒造)にも、一時期はまったよ。
単身赴任で中国・上海に渡った時も、焼酎は切っても切れない「友」だったなあ。異国の地での仕事は、ハードでさ。やっぱりストレスがたまる。そんな時に助けてくれたのが、焼酎だった。日本食材店で麦焼酎の「いいちこ」(大分・三和酒類)を買ってきて、DVDで日本のドラマを見て涙を流しながら、飲んだなぁ。
おれって心底、酒が好きなんだろうね。お友達は、酒なんだよね。悲しい時も、うれしい時も、何かあると、酒を飲んでいる。親父によく言われた。「そのときの気分で、気持ちと体を浄化させるのが酒なんだ」。そして「酒とは上手に付き合えよ」と。この年になって、親父の言葉の意味が分かる気がする。
焼酎はカッコつけなくていい酒なんだ。
鹿児島に来て5年。ことし社長の椅子を譲った。そのことは、とってもうれしいことなんだ。でもね。「これで社長は終わりなんだ」と思うと、一抹の寂しさもこみ上げてくるわけよ。そんな時に、焼酎が「お前、よくやったじゃないか」と慰めてくれるんだよ。寂しい気持ちを浄化してくれるんだよね。
焼酎はカッコつけなくていい酒なんだ。今でも忘れられない。東京から鹿児島に来た当初、取引先の人と焼酎を飲んでいたら、「何カッコつけてんだ」とこっぴどく叱られたんだ。男、56歳で大泣きしたよ。それからだね。自分を飾らず、素のままでいられて、その自分が鹿児島の人に受け入れられて、最終的には商売にもつながっていったのは。
富士ゼロックス人生の最後の地が、鹿児島で本当に良かった。これだけ素の自分でいられたのは、会社人生で初めてじゃないかな。結局のところ、焼酎は女房の次に欠かせないパートナーだよね。この酒が傍らにあるだけで、自分らしくいられるんだ。
プロフィール
嶋田光邦さん
1953年生まれ。東京都出身。77年、富士ゼロックスに入社。営業課長、支店長など営業現場で活躍、ゼロックス中国ではマーケティング担当副社長を務めた。富士ゼロックス鹿児島代表取締役社長を経て、現在はグローバル人材の育成に力を注いでいる。