「磨き芋」でつくる芋焼酎
白金酒造は昔から、きれいな芋焼酎をつくっている。
大きな理由の1つは、原料のサツマイモを、きちんと皮をむいた上で、傷みなどを徹底して取り除き、ぴかぴかに磨いた状態で使うからだ。
白金酒造こだわりの磨き芋”をつくる作業である。
今でこそ、多くの蔵が、芋の下処理を丁寧にするようになって、過去にあった「芋くさ~い焼酎」はなくなっている。
でも、白金酒造の杜氏、東中川太さんは「うちでは何十年も前から、当たり前にやっていたことなんですよね」と話す。
黒瀬杜氏の技を受け継ぐ白金酒造の杜氏頭
午前5時。
表通りの車の往来もなく、しーんと静まり返った石壁の蔵。
誰もいない薄暗い蔵の中で、東中川さんは、ずらりと並んだかめ壺に耳をすます。
ぷつっ、ぷつっ、ぷつっ。
かめの中で発酵するもろみの音色が聞こえてきた。
「元気のいい音だ」とつい頬が緩む。
1日で最も好きな時間だ。
杜氏になって6年の47歳。
7人の蔵人のリーダーは、焼酎造りの期間中、常にもろみの状態が気になる。
休みの日でも、趣味の家庭菜園の土いじりをしていて、蔵のことを「今、どうなっているんだろうか?」と想像してしまう。
生き物を扱っているだけに、微生物がつくりだす元気な音を聞かないと、造り手として安心できない。
ぷつ、ぷつと泡を出して発酵する様子を眺めていると、まるで子供のようで愛おしい。
蔵人になって20年以上になるが、ずっと見ていても全く飽きない。
20代で白金酒造の門をくぐった時、蔵には焼酎造りの名人集団と言われた「黒瀬杜氏」がいた。
杜氏頭である黒瀬東洋海さんらは、厳しかった。
親以上に年の離れた先輩たちは、昔ながらの職人。
「見て、覚えろ」の世界で、「怖くて、質問することもできませんでした」。
厳しさに耐えられず、辞めていく同僚もいた。
ただ、東中川さんは焼酎造りが肌に合っていたらしい。
とにかく、黒瀬さんたちのする作業をじっと見続けた。
見ながら技術を盗んでいった。
モノづくりの楽しさにのめり込んだ。
杜氏就任、そして「芋焼酎の味が違う」と同僚
41歳の時、東中川さんは白金酒造の杜氏に就任した。
ところが、自ら先頭に立ち、造る芋焼酎は、同僚から「これまでと何か違う」と言われ続ける。
「自分では、黒瀬さんたちがいたころと同じようにつくっているつもり。杜氏の代替わりをする前から、自分が主体となって現場作業をし、黒瀬杜氏は最終チェックという役割でした。だから、造りに自信はあったんですけどね」
新人時代から、ずっと同じ作業をやってきたつもりだけど、不思議なことに2~3年は「何かが違う」と言われ続けた。
東中川さんは悩み、もろみの温度を上げてみたりと試行錯誤の毎日を過ごす。
すると、いつの間にか、何も言われなくなった。
次第に気持ちは吹っ切れてきた。
何が違ったとしても、やっぱり自分がつくる白金酒造の芋焼酎は、うまいと思う。
これからも、自分がうまい焼酎をつくればいいんだ、と。
消費者と造り手のつながりを重視する白金酒造
ただ、一般の消費者はどうなのだろうか?
その「焼酎を飲む人」たちの反応を知りたくて、今、東中川さんら白金酒造の造り手は、地元の居酒屋などの飲食店に足を運び、お客さんの話を聞いて回っている。
「白金酒造の焼酎を入れてもらっている飲食店で、お客さんにお酒をついで回ったりして、感想を聞くんです。自分には『おいしいね』と言ってもらえるんですが。ボトルをキープしてもらっているのを見ると、本当に気に入ってもらえてるんだと、うれしくなりますね」
消費者と直接つながることで、白金酒造の焼酎を喜んで飲んでくれる人たちがたくさんいることを知った。
蔵の中にこもっていたら、知ることができなかったこと。
大きな自信になった。
今はほどんどいないとされる黒瀬杜氏から伝統の技を受け継いだ47歳の杜氏頭は、地元の飲食店の棚が、白金酒造のボトルキープで埋め尽くされる光景を想像しながら、今日もうまい焼酎造りに励んでいる。
白金酒造
1869年(明治2年)創業。現在100を超える鹿児島県内の焼酎蔵で最も古く、西郷隆盛も訪れた逸話が残る。石壁の建物は国の登録有形文化財に指定され、「石蔵ミュージアム」として、焼酎の製造工程や歴史などを学ぶことができる。代表銘柄は芋焼酎の「白金乃露」。かめ壺で仕込み、蒸留には木樽蒸留器を使い、昔ながらの製法を守っている。